第1回 3月15日(土)
柳田國男『遠野物語』『山の人生』
初回の参加者は7名。
いまどき柳田を読む人がどれほど居るのか疑問でしたが、短いコピーを用意するなど敷居を下げたおかげで初めての方も来てくれました。これからも色んな読書体験を持つ人と会って気軽に話せる場所になって欲しいと思いました。
富田真史
*** 読書ノート・その1 “幻のもうひとり” 森末治彦
………長らく民話を思い出す事のなかったSさんは、民話研究者の訪問をきかっけに、幼い頃に祖母に聞かされた語りが泉のように溢れたという。そして、民話に育まれた世界観として、“もう一人の自分” が側に居ることが如何に心強いものであるかを語っている。祖母に聞かされた民話を長らく思い出さなかったのも、民話が “もう一人の自分” となってSさんを支え続けたからだろう。
■『遠野物語』に収められた民話からは、その背後に潜む死や狂気、自然災害といった人間の理性を超える力の存在と、そうし力が人々に民話を語らせた風景が垣間見える(たとえば海嘯(津浪)に呑まれた妻の幽霊と海岸で出会う男の話は、明治三陸大津波の記憶を背景としている)。それらは、避けることの出来ない不条理を不条理として受け止めるための智慧であって、「道徳を教える道具」、「日常の不満のはけ口」、「娯楽の少ない時代の云々」…といった退屈な民話観ではない。
■民話をはじめ象徴的な思考を棄てた現在、剥き出しのままの不条理を受けとめなければならない。近代化へと邁進する時代のなかで柳田は、東北の片隅の物語を書き残すことを「少なくとも現代の流行にあらず」としながらも「この書は現在の事実なり」と冒頭に記している。
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メモ(遠野物語)//
民話には全然詳しくないけれど、遠野物語は私が今までに触れてきた昔話や民話などとは違う感じがした。
今まで触れてきた「話」にはだいたい教訓などがあり、それは一般化された文法が使われていて、意味の固定した言葉の組み合わせで成り立っていて、それゆえ安定している。
遠野物語は、そういった文法から外れて、何か、無理やり凝固させたような感じがあって、それがいびつさや得体のしれなさ、不安定さに通じているような気がする。
文法を使わない「凝固」はかなりアクロバットでエネルギーがいることだと思う。
それを人々の生死に関わる切実さでもって、そのおどろおどろしいエネルギーでもって、固めてしまったような。
なにかが拮抗しあっている状態を無理やり凝固してしまったもの、だからとても不安定。
この不安定さの間に、隙間がある。
民話や、詩など、繰り返しのことば、何かへの反応ではなく、呪文みたいな独立したオブジェみたいな言葉は、その存在感を繰り返しなぞるだけで安心するところがある。
言葉と何かがイコールでつながれておらず、文法や方程式には回収されないので、
それを繰り返す度、そこに隙間ができる。
なぞる度に隙間を生じさせることのできる言葉・話、民話というもの。その力をもうちょっと知りたくなった。
kirik
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