第2回 4月12日(土)
夏目漱石『夢十夜』と(夜みた)ゆめの報告会
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メモ(夢十夜)//
夢がずっと昔から気になっている。
夢は夜にみるから。
夢も夜も個人的なもので、誰もそこには介入できない、独りの場所、もの、事柄。
夜に見たもの拾ったものを、朝、起きた世界で並べてみるということ、
その時に変わるもの、確実になくなっているだろうもの。
留めるために、言葉で刺したりまたはぶつけたり覆ったりなど試みても必然として変わったり消えていったり、またはすでに夜に置いてきてしまっていて、思いだすことさえできなかったりする。
その瞬間に起こる出来事、生じる違和感やくるしさや高揚感、とその様子が、痛々しいけど見ていたいと思う。
それを他人にはなすこと、他人の夢のはなしを聞くということ、
そこにすごく惹かれるイメージがある。
夢ってなんなのか、知りたい、夢が夢のままで朝、いられるかいられないかで、
朝目覚めた場所、世界の広さがわかる気がする。
夢もそうだけど、たとえば小説や絵や音楽、その他なんかもそれに共通した何かがあると思う。
『夢十夜』については、そういったこともあって、昔から気になっている作品だった。
漱石の初期の作品ということもあるかもしれないけれど、
過去にしてしまう覆いのようなものが薄くて、
運慶の話も、漱石の自分のこれからの文学や芸術との向き合い方について、いろいろ思った軌跡みたいなものが垣間見れておもしろかった。
色や、音や、揺らぎ、不安や焦燥感やかなしみなど、幼少期に刺さったままそのままになっている、懐かしいどころか、常に胃の底に控えている鮮烈なイメージたちが、よかった。
夢を「読み物」としてかくという行為について、漱石はどう捉えて、夢十夜をどう描いたのか、構造の面など、もっと知りたい。
また、個人的に人の夢の話を地道に収集していきたい。
kirik
***読書ノート・その2 “運慶の仁王像” 森末治彦
ときどき高校の授業で読んだ「運慶の仁王像」の話を思い出すことがある。
運慶の話は、表現することそのものの喩ではないかと思えるからだ。
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仁王像を彫る運慶に主人公が感心していたところ、ある男が「運慶が仁王像を一から作りあげたのではなく、木に埋もれていた仁王像を堀りおこしたのだ」と語る。主人公は家に戻り、手当り次第に仁王像を探すが、見つからない。
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運慶の話は、漱石が夢に託した表現そのものにも通じるものがある。十話ある夢の多くは、ハーメルンの笛吹きなど、古来の神話や昔話に原型がある。運慶の話はミケランジェロにあると言われる(※)。
とはいえ、これは今でいう「元ネタ」ではない。そもそも夢のなかでは、剽窃か創作か、コピーかオリジナルか、といった対立は無意味だ。夢の原型が人類にとっての「集合的無意識」に根ざすものかは検証できないにしても、夢が個々の文化に規定されつつもそれを超えた普遍的な構造をもっているという感触がある。
たとえば、夢日記をつけた経験のある人ならば、そこに共通した構造があることに気づくだろう。自分の場合、夢の世界で体験したものを、写真に収め、持ち帰ろうとするが、どうしても持ち帰ることが出来ない。あるいは、竜宮城から持ち帰った玉手箱のように、別のものになっている。
夢十夜では、美しい女の蘇生を百年待つ男の話がある。生前の姿での再会は叶わないが、百年後に女は百合に化身する。夢の中であっても「あの世」と「この世」を自由に行き来できない。神話が教えるように、原初において境界が曖昧だった昼の世界と夜の世界、生と死のあいだに「タブー」が生じることで、はじめて人間は人間になる。
夢から醒めたときの取り残されたような感覚は、この「双方向」への欲望と「一方通行」の禁忌から来るものだろうか。ともあれ、世界中を自由に移動できるようになった現代にあっても、この禁忌だけは踏破されないでいるのは、かえって救いなのかもしれない。
「運慶の話は表現することそのものの喩ではないか」と言ったのは、
運慶のような天才でなくとも、夢のなかでは誰もが運慶の木を手にしていると思えるからだ。
※稲賀繁美「物質の裡に精神は宿るかー漱石『夢十夜』の運慶とミケランジェロの詩」『あいだ』175号(http://www.nichibun.ac.jp/~aurora/aida/aida175.pdf)