第3回 5月10日(土)
「 国土という『身体』のゆくえ ――その想像力の系譜をたどる 」
今回は企画者(森末)が過去の論文+現在執筆中の論文をもとに話題を提供しました。
「読書会」と言うよりは、「研究(の途中経過)発表」に近いものでしたが、
予想を上まわる9名の参加者と意見を交換することができました。
会話を通じて、考えがまとまったり再考を促されたりと、
有意義な会になりました。
理系の立場からのご意見も、今後大きなテーマになりそうです。
あらためて参加者・やっちの皆様に感謝申し上げます。
テーマは、戦後日本の国土観を支える社会有機体論についてでした。
幹線道路や鉄道が「大動脈」に喩えられ、インフラの「老朽化」や「長寿命化」が課題となるように、 社会インフラや国土は「身体」になぞらえられます。
社会有機体論は、戦後復興期・高度成長期はもちろん、
近年では、3・11後に浮上した「国土強靭化」論もそうした想像力の圏域にあります。
国土政策の可否を論じるためにも、先ずは、私たちの国土観をなかば無意識に規定してきた想像力を、その源泉にまで遡ること。そうした作業を通じて、はじめて《想像力の組み替え》も可能になると思われます。
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ホブッズやパリの都市改造をめぐる言説などを振り返ったとき、
近代社会は、都市や国家を「人工身体」化して来たと言えます。
とりわけ「社会インフラ」の整備とは、国土という「身体」に、血管(上下水道、鉄道etc)を埋設することで、血管を流れる血液(水、物資、人etc)=資本を国土全域に巡らせる「人工身体」への外科手術だったと纏められます。
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ところで、更に問題なのは、社会インフラという「人工身体」に、それを享受する個々の身体も絡めとられているという事です。
たとえば、真夜中のファミレスで煌煌と焚かれた電力を享受しながら、この文章を書いている自分が、ベーコンやデカルトを「環境破壊の原点」などと批判したところで、なんら痛痒を与えないことは明らかです。
エネルギー政策を論じるには様々な水準がありますが、
「思想の問題」として引き受けるには、社会観や世界観にまで届かないと「想像力の組み換え」は意味をなさない。これには相当の覚悟が必要です。
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17世紀に生きたデカルトは、愛娘フランシーヌを喪った悲しみを癒そうと、
職人にフランシーヌそっくりの自動人形を造らせ、行動を共にしたといいます。
この逸話は事実でなく創作なのですが、デカルトを嗤う気にはなれない。
というのも、細胞に刺激を与え「若返りも可能」だとする研究に一喜一憂している様子を見ると、現代社会も同じ幻想を追いかけているのでは…、と思えるからです。
永遠の命・不老不死を託された「オートマタの夢」は生命研究に引き継がれ、
永遠の動力・無限の進歩を託された「永久機関の夢」は原子力発電に引き継がれた。
技術を通じた無限の進歩や成長という近代の信仰は、想像しているより深く私たちに浸透しているかもしれない、と自覚してみることから始める必要がありそうです。